———神サマに、会った事はまだない。
けど、【悪魔】に逢った事ならある………
その扉は、薄暗い廊下の突き当たりにある。
何度改築を繰り返しても、決して変わらない廊下の一番奥。
窓のない廊下は、いつも薄闇が立ちこめ、来る者全てを拒んでいるようにさえ思える。
そこにたちこめる空気も闇も、その奥からあふれる狂おしい郷愁と、悔恨と、愛情と、激情も。
いつまでも変わらない。
私は、扉の前に立つ。
毎日、その扉の前まで行き、古めかしい扉の取っ手に指を乗せ、ゆっくりとそれをつかんで————
「………………」
そして、その手を放してしまう。
このところ、ずっとそんな調子だった。
その部屋に、入る事ができない。
その資格がないような気がして。
振り返りもせずに、足早に、今日も逃げるようにそこから去った。
———六月二十二日 鶴伎町———
死の間際に見る、走馬燈。
それと良く似たこの感覚は、もう珍しくもなかった。
「………………あー、痛かった」
まだ「あちこち」がつながってない身体を、半ば無理矢理、立ち上がらせる。
それを見下ろす長身の大男は、信じられないモノを見るような目で私を見つめていた。
感情が弾けると、そのスキマに思いもかけないものがすべりこむ。
気付かなかった感情。気付けなかった想い。気付かないフリをした事実。
そんなモノを垣間見て、そしてまた、目の前の「現実」と向き合う。
なんて、素敵な人生だろう?
こんな姿———死体と呼ぶのさえためらうような、ボロボロのちぎれかけたカラダで、それでも死ねない呪われた存在。
まるで、フィクションの中の吸血鬼みたいにブザマで、笑えるほど素敵だ。
「貴様………何者だ?」
「……ただのカリュウドよ。ただのニンゲン。ただのエンジャ……お前が知らないだけで、“この程度”なら、いくらでもいるのよ? 知らないの? 悪魔のクセに」
私をこんなにした男を———【悪魔】を、挑発するように、私は嗤った。
空には巨大な月。
六月だというのに、ここは異様なくらい寒かった。
吐息が白く変わるくらいに、凍てついた空気。
誰も知らない、誰も来ない、誰も届かない路地で、私は悪魔を見つけた。
いつもなら、問答無用で殺す所を、わざと遊んでこのザマだ。
でも、こういうのも悪くない。
こうして、血の海に倒れるのも。無力な死体の真似事も。汚らしい屍になり果てるのも。初めてのことじゃない。
「死」の姿を知っていると、くだらない先入観はなくなる。
自分がどんなバケモノで、相手がどんなバケモノなのか、きちんと理解できるようになる。
だから、たまには悪くない。
それに、痛みは強烈な感情を呼び起こす。
怒りと愉悦と殺意と狂喜。
その熱は気持ち良かった。
頭の中が真っ赤に燃えて、目の前の獲物しか見えなくなる。
真紅の双眸に射貫かれて、悪魔はどこかおびえるみたいな顔をしていた。
「…もう、いいわよね?」
「何?」
「こんなにボロボロになるまで、ヤラせてあげたんだから、今度は私にヤラせてよ………ていうか、つまり、そういうコトだから—————死んでね」
まだ損傷の修復が終了していない腕を、水平に掲げる。
裂けた傷口からこぼれた血が、肌を伝って地面に落ちた。
温かい血。
ぬめる生命の体液。
痛みと快楽であふれそうになりながら、冷酷な思考がそれを咬み殺す。
手にしたちっぽけな刃が、みるみる長く、鋭く伸びて、一本の刀に変化した。
「………お前程度なら、一本で十分かな」
「なめるな、小娘ッッ!!」
激昂と憤怒が、全てを焼き尽くす炎のカタチになって見えた。
その覇気だけで、周囲の空気が全方向に押しやられる。
一瞬でも気を抜けば、あっという間に八つ裂きだ。
ついさっき、そうなったように。
壊されるのは、とても痛い。
覚悟があればとか、そんな次元の話じゃない。
何度もそんな苦痛を望むほど、私はマゾじゃなかった。
「なめてないわ。把握しただけ」
ゆるやかに、舞うように振るった太刀が、対角線を描いて視界内の全てを割断した。
悪魔も景色も、風も大地も何もかも等しく引き裂いて、その夜露に濡れたように妖しくきらめく切っ先が静止する。
「…反論があるなら、再生してみせれば?」
けれど、結局、悪魔は断末魔さえ上げることなく、鋭利な切断面をさらしながら崩れ落ちた。
そして、それきり二度と動かなかった。
【悪魔】。
死をまく存在。
超越者。
だが、死んでしまえばただの汚物だ。
私はその首級を切り取ると、脂ぎって不快な感触の髪を引っつかんで、それを持ち上げた。
「なめないでよね。クソ悪魔」
放っておけば、真っ黒い灰泥に変わるだけのそのゴミを手に、私はその見知らぬ路地を後にした。