———家屋は、ヒトの精神を規定する。
例えば、せまくて暗いオリのような空間が、そこにいる者の精神を閉鎖的にするように。
あるいは、道場や寺院のような広くて生活感の希薄な空間が、精神をどこまでも開放させるように。
あまりに単純な発想に思えるが、それは事実だ。
建物の間取りも、採光も色彩も、匂いも、人の精神に影響をおよぼす。
人があまりに繊細なのか、それとも、建造物が元々そういう「器」なのか、どっちにしてもそれは事実だ。
私は、この家が大嫌いだった。
古めかしいこの屋敷が。
十年以上も暮らした生家が。
ここは私にとって、気が遠くなるくらい、ただずっと耐え続けてきた記憶の墓場だった。
私を狂わせる全てがそろってる、このカビ臭い屋敷を、私は憎悪さえしていた。
なのに、こうして足を運んだのには、当然理由がある。
シンと静まりかえった屋敷の中を、足音も立てずに歩き続けて、廊下の突き当たりで立ち止まった。
血の臭い。それと、腐った空気の臭い。
行儀作法なんか無視して、足で壁の模様をごつんと押すと、床板の下でカギの外れた音がした。
「……………」
気の重いため息を一つ落として、床板をめくると、その奥へと続く階段を下りる。
元々、そこは地下壕だったらしい。
だが今では、そこは秘密の階層だった。
普段は誰も入る事を許されない領域。
「七祇」の人間でも、ここに自由に出入りが出来るのは、当主だけだ。
その理由は、この下には人の目に触れさせてはならないモノが、無数にあるから。
(……相変わらず、カビ臭い場所…………)
見知った闇の中に降り立つと、私はそのまま明かりも点けずに奥へと進んだ。
不意に視界が開け、小さな明かりと人の気配を感じた。
「こんばんは、紅音さん」
こちらが声をかけるよりも先に、優しい声音が飛んできた。
「…………何してるんですか? こんな時間にこんな場所で」
「話し合いだけど。それが何か?」
私の皮肉に、その女は落ち着いた声音でそう答えた。
七祇一族の現当主、七祇果。
私の伯母で、保護者で、そしてこの世で最も嫌いなニンゲンの一人。
その美貌も、その知性も、その声も、全てが気にさわる。
「どこが話し合いなんですか? ペットを拷問してるようにしか見えませんけど?」
伯母の足下には、拘束された人間が転がっていた。
私の良く知ってる人間。
彼は、あらゆる種類の拘束具で、全身をがんじがらめにされていた。
まるで、荷物か何かのように。
芋虫のように冷たい床の上でもがいている上倉桐人を、私は冷たく見下ろす。
私の幼なじみ。そして、あの人の友人。
「少し、話を聞いていただけですよ」
「そのカッコじゃ、何もしゃべれないと思いますけど?」
「話さなくても、情報を引き出す手段はありますよ。私達は、そういう生き物でしょう?」
「…………彼じゃないわ」
これ以上、この女と話してもラチがあかないと判断して、私はそう告げた。
ほんの少しだけ、伯母の眉が動く。
「それは、どういう意味かしら? 紅音さん」
「同じコトを、二度言わせないで。伯母さん」
ごとんと、持ってきた汚らしい首級を床に放り捨てた。
冷たい岩のようになっている悪魔の首が、ごろごろと転がって柱にぶつかる。
「………これが、件の犯人だと?」
「かも知れない。そうじゃないかも知れない。でも、そこのペットがやったって証拠もないでしょ?」
この女と話してると、おかしくなりそうになる。
日に日に、その感覚は増してゆく。
子供の頃は、あんなに好きだったのに。
ある日を境に、その感情は逆転してしまったから。
「この街は、容疑者だらけ。くだらない魔女裁判なんかやめて、その悪魔で手打ちにしてくれませんか? 伯母さん」
「……………分かったわ。わざわざ帰ってきてくれた姪の言葉ですものね。尊重しましょう」
あっさりと、伯母は引き下がった。
そんな態度が、余計にムカつく。
けれど、そんな感情は一切表情にも出さず、その気配が完全に消えるまで、私は沈黙を続けた。
伯母とその取り巻きがいなくなると、私は足下で転がっている上倉の拘束を解いてやった。
「………貸しのつもりかい?」
「本当に、アンタが犯人なら、そういうコトになるのかもね。まあ———、そんなのどうでもイイんだけど」
幾重にも巻かれた革のベルトと、鎖とワイヤーをまとめて一気に引きちぎると、上倉は立ち上がって笑顔を浮かべた。
かなり手荒に扱われたらしく、あちこちが傷だらけだ。
きっと、いつもの軽口を叩いて、あの乱暴な取り巻き達にやられたのだろう。
自業自得だ。
上倉桐人が、こんな場所で尋問されていた理由は、最近、鶴伎市内で確認されている「人形」共が原因だった。
【モドキ】を作れるのは、悪魔か、上倉のような特殊な人間だけだ。
だから、当然その候補者には嫌疑がかかる。
それに多分、上倉は「クロ」だった。
「…………それじゃあ、何のつもりなのかな? いつもなら、あの人よりも先に率先して、僕を拷問する立場なのに」
「私が止めなかったら、殺されてたわよ? 伯母さん達——宗家はもう、アンタに興味よりも懐疑を感じ始めてるから」
そう。それは困るのだ。
宗家の意向なんか、知ったコトじゃない。
七祇の方針も、意志も、一族や組織の考えも関係ない。
逸脱者は殺す。それが血族としてのルールであっても関係ない。
そんなコトより、私には優先すべき事がある。
今、この男が消えると、マズイのだ。
私が困る。
あの人との「接点」が減るのは、ゴメンだった。
だから、助けたのだ。こんなクソ野郎を。
「というより、脅威なのかもね。アンタが日々、どこまでも“変質”してくのが、怖くて怖くてたまらないのよ。だから、その内、本当に殺されるわよ? 上倉」
「忠告ありがとう。でも、カゴの鳥にはどうにも出来ないだろ?」
「ぬけぬけと。まあ、イイけど………」
この男が、最近、何かをしてるのには気付いていた。
最近、街でやけにあふれてる「人形」の内、本当に何割かはコイツの仕業なのかも知れない。
でも、そんな事はどうでも良かった。
少なくとも、まだ私はそれを許容する事ができる。
ただし、この先いつまで、その許容がもつかは知らないが。
「…何も聞かないんだね」
「聞いて欲しいの?」
「次期当主が、そういうのは問題あるんじゃないの? 君はいずれ組織を束ねるべき人間だろう?」
「知らない、そんなの。その時まで、生きてる保証もないし。どうだってイイもの。私は私の役目と義務と、あとやりたい事をするだけ。ジャマするんなら、あの女でも許さないわ」
「………怖いね。彼に見せたいよ。今の君の———その美しい真っ赤な目をさ」
「………話したら、どうなるか分かってるわよね?」
「分かってます。冗談ですよ」
上倉は苦笑しながら、手のひらを私に向けて降参の合図を示した。
本当に、油断ができない男だ。
昔から何を考えてるのか読めない。
こんな男の、一体ドコが彼のお気に入りになってるんだろう?
「でも、助けてもらった礼に、一回だけ、段取り組んであげるよ。それで貸し借りなしって事で」
「段取り?」
「明日の放課後、ウチのクラスの前で待っててよ」
「…明日は、部活があるんだけど」
「サボればイイだろ? 適当な理由つけて。それとも、そっちの方が優先事項だとでも言うのかい?」
「……………」
その口車に、私は乗せられてしまった。
つくづく、単純だ。
恋は盲目とは、よく言ったものだ。