「時雨クン」
「何だよ、天津」
「古典の宿題。今日が提出期限だけど、忘れてないわよね?」
梅雨が明けたばかりの空はどこまでもまぶしくて、そのきらめく天空の鏡と同じ名前の彼はといえば、今日もどこか面倒くさそうな顔で私を見上げていた。
「ああ―――って、何で俺の机に置いてんだよ?」
机の上を占拠した、クラス全員分のノートの山に、彼――時雨ソラは私をにらむ。
「運んで欲しいなーって思って。キミので最後なんだから、貧乏クジって事でイイでしょ?」
「どんな理屈デスカ?」
「それとも、こんなに重い物をか弱い女子一人に運ばせるつもりなのかしら?」
「…分かったよ―――運べばいいんだろ。でも、半分だけだからな」
「あら。意外とケチなのね。時雨クンって」
「ケチじゃない。男女平等ってヤツだろ? こういうのはさ」
しれっとそういうと、彼は席を立ってノートの山を抱えこんだ。
私の少し前を歩く彼は、半分より少し多めのノートを抱えたまま、いつもの少しめんどくさそうな顔で窓の向こうをながめていた。
上手く作った二人きりの時間。
だというのに、あと数分で目的地の職員室に着いてしまう。
こんな幼稚な手段しか思いつかない自分が可愛らしく、そして単純だと思う。
まるで、フツーのニンゲンみたいだ。
「……ホントに半分しか持ってくれないなんて、やっぱりフェミニストじゃないわよね。キミって」
「んなモンになりたくもないし。そういう都合の良い言葉に期待すんなよ。男と女のどっちから見ても、そんなのただの偽善コトバだろ?」
「人当たりの悪い、人物像が不鮮明な人よりはマシだと思うけど?」
「それで結構。誰かのために生きてるワケじゃないし、誰かにこう思われたいとか、こう見られたいとか、そんな事思ってもないし」
「……ホント、変わってるわよね。時雨クンって」
「そんな俺に、わざわざこんな事させるお前もな」
「……………」
普通に会話しながら、それでもやっぱり、プライドが少し傷付いた。
彼は他のクラスメイト達とは違って、私を特別扱いはしてくれない。
知り合う前も、知り合った後も。
私がただの同級生でも、生徒会長でクラス委員長でも、彼には関係なかった。
そんな態度が心地良くて、でも少しムカついた。
ただその瞳に映ってる「物体」という立場は、女のプライドを刺激する。
私は彼を見てるのに、彼は私を見ていないのが、もどかしくて―――そして切なかった。
「…ねえ、時雨クン」
「何?」
「キミって、友達少ないでしょ?」
「そうだな。多分、両手で足りるくらいだから、少ないであってると思うけど」
「……そこ、フツーはへこむトコでしょ?」
「へこんで欲しいの?」
「別に、そうじゃないけど………」
彼は、言葉じゃ傷付かない。
うんざりしたような顔はしても、それは大抵ポーズでしかない。
自分自身をそんな風にどこか見限ってる冷めた態度も、見る者によっては魅惑に変わるものだ。
事実、彼は自分で思っているよりもはるかに、潜在的人気を持っている。
ただそれ以上に近寄りがたい噂とその態度のせいで、私や一部の女生徒以外、彼と接触しようとはしないだけだった。
「…少しは、話を合わせるとか、気をつかうとか、もっと―――」
「それはお前の“悪”だろ? 俺のはそれじゃない」
【悪】と、いきなりそんな飛躍した単語を持ち出されて、私はあっけに取られた。
「いきなり人を悪人呼ばわりって、何なのよ?」
「そういう意味の“悪”じゃない。分かりやすく言えば、お前の主観によるお前のためのお前の価値観にもとづいたお前のルールの事。そういうのは“正義”か“悪”って言うんだろ? 普通はさ」
「……キミって、何でも二元論にしたがる正義マニア?」
「話聞いてたか? 正義も悪の一面にすぎないって意味だよ。人のエゴはつきつめりゃ全部が“悪”だろ? それを正義だの善だの言うのは、そいつの勝手。でも、本質は同じなんだよ」
「つまり、この世界には“悪”しかないって事?」
「ま、そういう事かな。でも、その方がシンプルで分かりやすいだろ? より強い悪が勝つ。それだけの話。中身はどうだってイイ、強けりゃいい、勝てば官軍、負ければ負け犬。それってある意味、真理だろ?」
「ミもフタもないし、夢も希望もない概念ね。それ」
「必要ないよ。生きてくのに必要なのは現実いっこだけ。ま、その現実を何で支えるのかは、個人の自由だけど。でも、生ぬるい幻想なんかで支えられるほど、現実は甘くないし」
淡々とそう言う彼は、やはり私の知っているどの男の子とも違っていた。
いや―――私の知るどのニンゲンよりも、「らしく」なかった。
その自覚があるのか無いのか、彼はいつものどこか遠くを見てるようなぼーっとした顔のまま、少しだけ優しく聞こえる口調で続ける。
「それに、自分だけは間違ってないとか、正しいハズだとか、清らかでなきゃダメだとか、そういう風に思いこんでると、あっさり折れちまう。そのちっぽけで根拠のない幻想が壊れた時、あっさり折れちまう。なら、自分が悪である事と、その悪の正しい意味ってのを理解してるヤツの方が全然強いし、ラクに生きられる。心がラクですむ。罪悪感ってヤツを肯定すれば、後悔さえしなくてすむし」
「アウトロー的な考え方ね。一般的じゃないし、それじゃあ大多数の支持は得られないと思うけど?」
「いいよ。分かんないヤツは分かんなくて。それもそいつの“悪”ってヤツ。それでも他の悪を砕き散らせる程そいつが強いんなら、誰も文句は言えないワケだし」
「…………」
まるで当たり前のように【悪】という秘めるべき種の言葉を口にする彼を、私は気付かれないようにそっと見つめる。
絶対に気付かれないように。
この瞬間を、記憶に焼きつけた。
「はい、到着。ほら」
「え、ちょっと!」
職員室の入り口に着くなり、彼は私の抱えてるノートの上に自分の分を思い切り乗せた。
「約束はここまでだろ?」
そう言って、私が反論する前にドアを開ける。
職員室の中が見えるこの状況で、いつものような悪態をつくワケにはいかなかった。
私は、品行方正な生徒会長で通っているのだから。
「……覚えてなさいよ」
「違うだろ、天津。そこはアリガトウ♪ 時雨クン――だ」
いつもの仕返しのつもりなのか、にこりと笑ってそんなジョークを言う彼。
「…………ありがとう。時雨クン♪」
怒りをかみしめながら、笑顔でそう言ってやると、彼はおかしそうに笑って、教室に戻っていった。
「…………………バカ」
その少し丸まった広い背中を見送りながら、誰にも聞こえないように私はつぶやく。
そして、深呼吸してから職員室に入った。