―――世界は平等でなくていい。
システムは常に致命的なバグをはらんでいていい。
なぜならば、その矛盾と理不尽な悲劇が、私達をニンゲンにする因子だから。
人はあがいてヒトになる。
ヒトはもがいてニンゲンになる。
世界に満ちた理不尽と、自分の体内に存在する矛盾とから目をそむけた時、人はニンゲンである事を自らやめる。
ニンゲン以下の獣になる…………
「会長。例の変質者の話、聞いてますか?」
「ヘンシツシャ? それって、局部を露出したり、いきなり抱きついてきたりする、春になると良く見かけるアレの事?」
まだ私と副会長の上倉桐人しかいない生徒会室は、がらんとしていて空気も少したるんでいた。
そんなどうでもいい話題を彼がふってきたのは、彼なりのコミュニケーションなのだろう。
正直、私はこの美少年と言って良い彼が、少し苦手だった。
抜け目もスキも油断も無い、そんな理想の仮面優等生っぷりがつまらない。
「いえ。もっとタチの悪いヤカラです。帰宅途中の女生徒をねらって、いきなりナイフを突きつけてくるらしいですよ。その後は、まちまちみたいですけど」
「まちまちって?」
「何とか逃げられた被害者もいれば、軽傷を負った被害者もいて、あと同時期にその被害者と思われる生徒が行方不明になったケースもあるみたいです」
「それって、つまり拉致誘拐目的って事?」
「そういう事なのかも知れませんね。あくまでウワサですけど」
「で、そんなのがこの近辺にいるっていうの?」
「県外で、同じような事件が何件か起きたらしいんですけど、犯人はまだ捕まってないんですよ。そして、つい先週、県内でもよく似た未遂事件が起きたらしいんです」
「それは初耳ね」
「ほら、例の“情報規制特例”のケースらしいんですよ。その事件」
「ケースRってヤツね。結構、いい加減よね。アレも。何を規制してるんだか…」
【情報規制特別事例(ケース・レギュレイト)】。
それは最近になって耳にするようになった言葉。
その内容は、特定の犯罪に関する一般公開可能情報を国家が規制する事で、事件解決を円滑にさせるという特別法。
市民団体とマスコミの猛反発を押し切って数年前に成立したそれが、実際、どの程度の効果を上げているのかは未だに不明だった。
それに関する情報は、基本的に公開される事はないし、されたとしてもその数字にどれほどの信憑性があるのかさえ、疑わしいものだったからだ。
そもそも、ただのニュースソースなら、そこら中にいる一般人の耳目が拾う情報全てが、たれ流しのように日々刻々とどこかの端末にアップされ、配信される。
このいびつな傷口がいくつも開きっぱなしの情報化社会において、完全に統制出来る情報なんて、ある意味存在しないと言って良い。
だが、ケースRが本当にシャットアウトしているものは、全く別のものだった。
それは、人類―――資格も能力も持たない彼等が「知る必要のない」情報。
だから、それに関しては一切のおすみつきを与えない。
公式に認められない情報は、大多数の人間にとって、単なる憶測としての価値しかない。
どんなに情報化が高度になろうとも、人は誰かが「認定」した権威しか、信じないのだから。
そして、憶測と推測だけが先行し、無関係な者達が勝手に混迷している間に、事件は終わる。
人知れず迷宮のようなファイルに記録されてうち切られるか、密やかに解決してしまうか、いずれにしても、その真相が世に出る事はないのだ。
その必要がまったく無いのだから、それは当然の処置だった。
「困ったものね。わが白嶺学園のテリトリーで、そんなフソンな事件が起きるかも知れないなんて、由々しき事態だわ」
「そうは言っても、突発的に起きる避けられない災害が“悲劇”ですから。僕らに出来るのは、せいぜい生徒に注意を喚起して、予防につとめる事くらいですよ」
「そうね。じゃ、掲示板に貼るプリントの作成と、今日の学園会報の更新にその件を追加よろしくね」
「分かりました」
物分かりの良い優秀な副会長は、私の押しつけた仕事をあっさり受領すると、自分の席に戻っていった。
「天津」
生徒会室での仕事をかたづけ、夏休みのグラウンド割り当て説明会に向かう私は、廊下で見知った女性に呼び止められた。
知的で冷たい明眸が特徴的なその女教師は、女の私から見ても、はっきり美人だと断言出来る人物だった。
向日未空。私の所属している部の顧問であり、私が尊敬している数少ない人間の一人でもある。
「少しイイ?」
「構いませんよ。先生」
そう言うと、彼女は眼鏡の向こうで猫のような愛くるしい目つきで笑った。
私は、彼女のこういう顔がとても好きだ。
観察者でありながら、なんでこの人はこうも―――自然に、当たり前のように―――やわらかくて気持ちイイ眼差しが出来るんだろうか。
「どう? その後の進展は」
「何の話ですか?」
「彼の事。もう、告白したの?」
「…プライバシーに関わる問題なので、お答えできません」
からかうような彼女に合わせて、わざと冷たくそう答えてから、私は目の前の美しい人を見上げた。
女の私から見ても、うらやましいプロポーション。ただの脂肪ではなく、その下には猛獣並みのしなやかで無駄のない筋肉が構築されているところがまた、にくらしい。
私もせめて、この見事な乳の半分も欲しいものだ。
「…なんて、冗談です。まだですよ。こういうのは、タイミングが重要ですから」
「そう。がんばってね。私の言えた義理じゃないかも知れないけど」
「ええ。がんばってみます。まだ若いですから、若者らしく一直線に。無謀と無茶がなければ、きっと恋なんて上手くいきっこないですし」
「そうね。そうかも知れないわね…」
「先生にも、負けるつもりはありませんから」
「何の話?」
「恋の話です」
「?」
先生は、本当に意味が分からないような顔をしてから、すぐに真っ赤になった。
「天津、何の話をしてるの?」
「だから、負けませんって話ですよ。センセー♪」
雷が落ちてくる前に、私はくるりと旋回して、早足で会議室へと逃げ出した。
ライバルは多い。
しかも、全員、一筋縄ではいかない相手ばっかりだ。
それでも私は決めていた。
彼に―――時雨ソラに、この想いを伝えようと。