―――ニンゲンであるという事は、苦痛を「放棄」しない事。
この地獄のような世界で、ブザマにあがき続ける気高き道化だけが、誇り高きニンゲンであり続けられる。
だから、私達はニンゲンにあこがれるのだろう。
人でありながら人ではなく、獣でありながら獣でもなく、あのかぐろい悪魔さえ殺してしまえる私達は、それ故にニンゲンには決してなれないから。
ニンゲンである事を放棄した豚共以前の問題で、私達はそのカケラさえ拾えない。
苦痛の意味が分からない私達は、それを見つける事が出来ない。
だから、ニンゲンにあこがれる。
弱く、愚かで、そして愛おしい彼等に。
だから、ニンゲンでないモノには容赦もしない。
人でないそれを破壊する事は、私達にとっては罪でも何でもない行為だから…………
学園を出たのは、いつもより少し遅い時刻だった。
運動部の猛者ばかりが集まった会議は、予想以上に紛糾して、その後、部の方に顔なんか出したせいで更に余計な時間を食う事になったのだ。
黄昏は、逢魔の時刻。
黄昏と呼ぶには、いささか遅すぎる時刻だったが、まだ十分、逢魔の時間の領内だった。
だから――――
こんなモノに出逢う。
いきなり、目の前に一人の男が現れた。
薄暗い切れかかった電灯の影から、ずっとそこに潜んでいたらしい不審者は、勢い良く私の前に歩み出る。
「……私のテリトリーで、勝手な事をしないでくれる?」
私は足を止めると、薄闇の静寂に満たされた空気の中に小さく溜息をついた。
緊張よりも、少し面倒くさいという気分の方が強い。
多少は狙っていたとはいえ、こうもあっさり「ハマる」のは、何だか道化みたいでイヤだった。
不審な男は、荒々しく息を吐きながら私に近寄る。
その顔にはうつろな笑み。
その手にはきらめく兇刃。
虫のようににごった目で、手にした武器の意味さえ知らず、男はどこか余裕を気取った足取りでゆっくりと近付いてくる。
私よりも多分年上だろう。暗くてよく分からないけれど、体格は標準以下に見える。
それでも、しぐさ一つでただのカン違いした豚だと分かった。
同業どころか、人間ですらないただの豚。
だからこそ、あっさり人形に成り下がる。
(こんな事なら、翠碕を呼んで車で帰れば良かったかも……)
陳腐な現実ほど、心の冷めるものはない。
目の前に立ったその「鏡」は、どうしようもないくらいくだらない、使い物にもならない代物だった。
捕食者にでもなったつもりだろうか?
猛獣にでも「変わった」と思ってるのだろうか?
ニンゲンには、元々、爪も牙もあるというのに。
ちっぽけなナイフ一本―――そんな形だけの力に、どれほどの意味と効果があると思っているのだろう?
その虚弱な指先に付いてるカラだけが、「爪」じゃないのに。
そのぜいじゃくな退化しきった歯列だけが、「牙」じゃないのに。
ニンゲンはその内面にそれらを宿しているというのに、それを全く理解していない。
狂気という名の断固たる意志こそが、本当の「爪」であり「牙」なのだ。
だが、覚悟も意志もない者に真の狂気は操れない。
それをつらぬき、それにおかされ、むしばまれ、それでもその真っ黒な欲望に染まる事の意味を理解して、それでもなお、「狂気」を名乗る者だけにしか、本当の「爪」も「牙」も使う事は出来やしない。
己の「悪」さえ持てない、ただの犯罪者ごときに、そんなものなどありはしないのだ。
「…ねえ、そこの人。三秒あげる」
そう言って、一秒も待たずに蹴りを叩きこんだ。
一瞬で間合いまで飛びこんで、同時に男の首めがけて正確無比に回し蹴りを撃ちこむと、男は牛のような声を漏らして崩れ落ちる。
やっぱり、ただの「モドキ」だった。
手にしたナイフで防御するどころか、反応さえ出来ずに、男は自分の頸骨の悲鳴を聞きながらぶざまに崩れる。
「……ねえ。それで何するつもりだったの? おどしてレイプ? それともラチして自分専用のドレイとか?」
だが、ニンゲンよりも強固に“改造”されてるモドキは、ケガじゃすまない運動エネルギーを急所に直撃されても、首を曲げたままの姿勢で片ヒザを付いただけだった。
首を折るつもりで蹴ってやったというのに、少々自信を無くすほどの耐久性能。
生身の打撃じゃ、こんなものにしかならないのは分かっていた。
なのにそうしたのは、単に発散したかったから。
蹴った足の方が痛い。
その痛みが、私の頭の中に冷たい思考を励起して、即座に足の痛みを修復する。
びゅうっと、夏にしては珍しい冷たい旋風が吹き抜けた。
私がよんだ魔風が、周囲の空間を隔絶する。
「その様子じゃ、もう痛みも感じないでしょ? もう快楽さえ感じられない壊れた人形が、いつまでも“誰”のお使いやってるつもりなの?」
男は答えない。
開いたその口から、だらしなくこぼれ落ちる唾液を止める事さえも、それに気付いてぬぐう事すら出来ないまま、再びゆるりと立ち上がる。
そして、その手にしたちっぽけな刃の先を私に向けた。
「答えなくてもイイけど。最初っから、ヤる事なんて決まってるしね。生きててもしょうがないでしょ? そんな不能者みたいな身体じゃ、もう何も出来ないんだし。出来るのは、ただブザマに獲物を殺すだけ」
両足が燃えるように熱くなる。
お気に入りの靴が一瞬で灰になって、その下からきらめく魔靴が現れた。
それは、“あるモノ”を殺すためだけに作られた兵装―――【魔葬ゼッカ】。
「しょせんはただのニンゲンモドキ。直したところで、元々ニンゲン以下だものね? あなたみたいな豚野郎は」
一歩、足を前に。
かつんと、魔靴が地面を叩き、響いた音色が波紋のように空間全体に伝播した。
視界内全ての領域を把握し、侵蝕し、奪い取る。
音の速さで。
音を超える光のひそやかさで。
光をりょうがする闇が瞬時に、周囲の全てを隔絶し断絶し寸断した。
ここは現実ではなくその境界。
物質世界のコトワリから、はくりした世界―――【分界】。
ここなら、世界は干渉できない。
誰が死のうと、消滅しようと、誰もそれを知る事さえできない。
「へえ、まだ動けるんだ。流石ね」
獣さえふるえあがる雄叫びと、鈍重な牛のようだった男が突如襲いかかったのは同時だった。
バネのような激烈さで、男の腕がはね上がる。
その切っ先がふれてもいないのに、馬鹿げた速度の生み出す衝撃波がアスファルトを吹き飛ばした。
当然、そんな行為をした部品がタダで済むはずもない。
男の腕はひきちぎれんほどの負荷にへし折れ、断裂した筋肉からあふれた血がソデを真っ赤に染めてゆく。
攻撃を「目で見た」瞬間、私は男の背後に移動していた。
当然、ダメージなど皆無。
私は哀れなその変質者をさげすんでいたが、あなどってはいなかった。
ただし、過大評価もしない。人形はしょせん、人形だ。
「……知ってる? ニンゲンはニンゲンとして生まれてこないの。だから、みんな努力してニンゲンに“ならなきゃならない”の。それが出来ない生き物は、ただの豚。ニンゲンじゃない。ただの豚。理解した?」
ゆっくりとふり返った男の顔が、かすかにゆがんだように見えた。
私の言葉は男に聞こえていない。
聞こえていても理解さえできないだろう。
思考回路の壊された肉塊にできる事なんて何ひとつ無いのだから。
「人を殺せば人殺し。でも―――、豚を殺すのは罪かしら? 人間以下のモドキを壊すのは? できそこないの人形を破壊するのは? それは罪? それとも正義?」
自身のノドをつぶすほどの奇声が再び上がるより前に、今度は男の腕が、有り得ない方向に曲がっていた。
軽く撃ちこんだ私の蹴りは、既存の物理法則に全く支配される事なく、思った通りの速度で―――光と同じ速度で男のひじを粉砕していた。
その手から、弾けたナイフがくるくると回転しながら頭上に飛ぶ。
「まあ、どっちでもイイんだけどね。罪ってね、それを罪だと思う心が、自分自身に突き刺すものなの。だから、罪を罪だと認識できないヤカラには、最初っからそんな概念は存在しない」
二撃と三撃は同時に撃った。
男の下アゴが繊細な氷細工のようにたやすく破砕し、その口の中の歯という歯が全て口外に吹き飛ぶ。
それに少しおくれて、飛んだナイフがさくっと地面に突き刺さった。
その刀身は、ほんの軽く「なでた」蹴りのせいで、オモチャのようにぐにゃぐにゃに折り曲げられていた。
まるでアメ細工が溶けたように、ステンレス鋼の刀身が有り得ない状態に曲がっていた。
今この場所に、既知科学のあらゆる法則は適用されない。
とっくに“侵蝕”は終わっているのだから、ここでの神は私なのだ。
「法が世界を作るんじゃないの。システムは法が作るんじゃないの。人がそのルールを理解して、認めて、自らそれにしばられて初めて、システムは成立するの。つまり、人が認めないものは、何一つ成立なんかしないし、決して認められる事もないって事。例えば、変質者の一方的な妄想とかね」
ギアを上げるように、数を増やす。
じょじょに確実に手数を増やす。
軽く当てるだけの寸止めの蹴りが、男の顔をあっという間にはれ上がらせて、いびつな風船のように変えてしまう。
もう反撃は許さない。そういう気分じゃない。
まだ内出血する機能は残されているのを確認して、気分が悪くなった。
ヤツラの仕事はいつも中途半端だ。
「今ここには私とあなたしかいない。これがどういう意味か分かる?」
両ヒザを蹴り砕く。
男には、全く私の攻撃が見えていない。
反応どころか予測さえできない。
当然だ。
この世界どころか、自身さえも“侵蝕”できないただの人形風情が、私に勝てる道理などないのだから。
「つまりね――――悪魔なんかに魅入られたツミブタを鏖殺しようが、すり殺そうが、私の勝手。あなたのターンはとっくに終わりなの。あらがいもせず、あらがいもできずに“モドキ”に成り下がった時点で、こうなる事は決まってたのよ」
条件は整えた。
後は仕上げて終わり。
こんな瘴気くさい場所からは、とっとと帰るに限る。
「さようなら、名前も知らないヘンタイさん。死んでアリからやり直せば?」
軽くステップするみたいに踏みこんで、同時に、最大出力の“侵蝕”を蹴りと共に撃ちこんだ。
空間ごと、男の身体が弾けて爆散する。
真っ赤な花火のような拡散。それが男の最期だった。
「……殺されたくないなら、殺さなきゃいいのよ。ヤったらヤラれる。それはとても当たり前の事なんだから」
突き破った空間の向こうに、人形遣いの操り糸が見えた。
男をモドキにした、【悪魔】がその向こう側にいる。
続けざまにもう一撃を蹴り放つ。
この異質な神隠しの世界の最奥に潜んでいた、名も知らぬ【悪魔】に繋がった穴めがけて思い切り撃ちこんだ。
穴の向こう側で、名も顔も知らない【悪魔】が断末魔を上げる。
これが魔葬。
これがゼッカの本来の用途。
「……さようなら。クソ野郎。私の街で、あまりナメた真似しないでくれる?」
その構成情報の全てを侵蝕され、「死」に書き換えられてゆく【悪魔】に向かって、私は吐き捨てるようにそう言った。
魔殺葬具の本懐をとげて、私のブーツ―――【悪魔】を殺したゼッカが満足そうにいつまでもふるえていた。