「綴喜幸成。大学生。現在失踪中」
「ツヅキコウセイ? 漢字では絶対に書けなそうな名前だな」
夜の食卓は、夕凪と私の二人きりだった。
兄は仕事でいつも帰りが遅い。いつもは夕食など食べないが、今日はペースが狂いっぱなしのせいか、夕凪に勧められるままに食事に付き合っていた。
今夜のメニューは、やけに塩味が濃い。
私が言ったのは、こういう味付けの「濃さ」じゃない。塩分濃度を増やしたところで、腎臓のリスクが増すだけだ。
とはいえ、何も言わずにそれを食べていた。
私もつくづく甘い女だ。
「そもそも、どこから回ってきた情報だ? それは」
「鶴伎町一帯を管轄している人達からの、サービス情報。別件で会った人にね、教えてもらったの。最近、この辺りに出没してるから、注意した方がイイって」
「つまり、例の“ケースR”ということか?」
「そうみたい」
この街には、異様な数の都市伝説が常に流布している。
そして、同時に「公式には存在していない」事件もやけに多い。
“情報規制特例”――通称「ケースR」。
それに指定された事件は、基本的に公式な情報が一切公開されない性質を持っている。
つまり、この街の都市伝説の半数以上は、実際にはその「ケースR」に認定された事件であるというのが、もっぱらの噂だった。
ケースRに指定される事件は、厄介な猟奇殺人や異様で奇怪な事件ばかりだという。
しかも、通常の捜査機関には解決どころか、手も足も出せないような常軌を逸した代物ばかりらしい。
それもそのはずだ。
なぜならば、この特別法案自体が「ある特定の存在」を、一般の人間―――【通常人類】の目から隠すためのものなのだから。
ケースRに指定された事件は、その存在さえ公式には発表されることはない。
つまり、それは「なかった現実」になる。
人は、存在しない現実―――自分の目にも耳にも届かない現実には、興味なんて持たない。
それはある意味、正しい判断だった。
「この街の管轄……“北城”か。お前も顔が広いな。さすがは元スパイ」
「美人エージェントって言ってよ」
「だまれ、メス猫。組織を裏切って、調査対象と結婚までしておいて、何がエージェントだ」
「仕方ないじゃない~、運命の出逢いだったんだもん……」
「それはそれは。ごちそうさま」
「あ、むーちゃん」
「出かけてくる。お前は花月の帰りでも待ちながら、サスペンスでも観てろ」
「もう、全然お料理、食べてくれてないし~~…」
やはり、この女の料理は私の口には合わない。
兄の好きなものばかりを並べたそのメニューが、本当は誰のために作られたのかなんて、鈍い私にだって分かる。
邪魔者なのは、きっと私の方なのだ。
だからなのか、昼間のソラの言葉が頭の隅で引っかかっていた。
その答えを探しに、私は夜の街へ出た。
―――“それは生存競争だ”。昔、誰かがそう言った。
でも、そうじゃない。
きっとそれは、ただの近親憎悪なのだ。
生存競争というのは、自分達と重なる能力と地位とテリトリーを持つ、別の生物種との間に起きる衝動だ。
自分達を埋没させ、それどころか駆逐しようとするモノを許さないのは、生物としての本能。
でも、それはあくまで自分と同じ次元のモノへの衝動だ。
ニンゲンが張り合えるのは、せいぜい猿までの自分達より劣る動物まで。
“ヤツラ”とは、張り合うどころか、まるで話にもなりはしない。
戦うどころか、その存在さえ認識出来ない相手など、存在しない神―――運命のようなものなのだから。
だから、【悪魔】とニンゲンの間に、生存競争なんていう原理は働かないのだ。
それは、【悪魔】を殺せる【エンジャ】であろうと同じ事だ。
【エンジャ】は基本的に、生存競争の原理でヤツラと闘争するワケじゃない。
ただ憎しみだけ。
それだけの理由で、【エンジャ】は【悪魔】とその眷属を決して許さない。
それは、ただの近親憎悪に過ぎないのだ。
深く昏い、極寒の海底のような、激しく狂おしい愛のような憎悪。
それだけが、私達とヤツラを闘争させる理由に他ならない………