月が雲間に隠れてすぐに、ソレは私の背後に立っていた。
悪寒というものは、夜霧に似ている。
いつも、音もなく近寄ってきて、気が付いた時にはそれに取り囲まれてしまっている状況。
つまり、回避できるような代物ではないということだ。
「…今、考え事をしてる。邪魔だ。失せろ」
「はぁはぁはぁ………」
しかし、相手は人語を解さなかった。
良く見れば、もう「人間」としてギリギリの状態らしかった。
地上であえぐ魚のように、荒々しい呼吸。
苦しそうに肩を抱く指が、服を破って肌に食い込んでいた。
引き裂けて行く繊維の悲鳴。そして、突き破った肉からあふれた血の臭いが鼻を突く。
ひどく、クサイ臭い。
それは、ニンゲンじゃない“侵されたモノ”の臭気。
ニンゲンを改造すると、大体こんな風になる。
「うごぉぉぉっ………!!!」
めきめきと、粘土細工のように骨格ごと筋肉が変形し始める。
それは、ある意味コメディだった。
ニンゲンが先祖返りするように、醜悪で兇悪なケモノの姿へと変貌してゆく。
「――ほう。ライカンスロープか。珍しいな。そういう改造もアリなのか? 流石は“ニンゲンモドキ”だ。何でもアリだな」
改造を施した支配者の趣味を反映しているのか、元「人間」だったその男は、見る間に人狼とでも呼ぶべきバケモノへと変化してゆく。
だが、人に野獣――狼の能力を混ぜてみたところで、せいぜい速度と力が増すだけだ。
それ以外に、猛獣のしなやかな筋肉の持つ対打撃性能や、柔軟な骨格による高い機動性能くらいは、ついでに獲得できるかも知れない。
それであの愚鈍なだけの人形を、多少はマシな殺戮兵器くらいには昇華できるかも知れない。
だが、それだけだ。
たったのそれだけの話だ。
「…やれやれ。今夜はずいぶんと騒がしい夜だな。今度は、団体サマ御一行の登場か?」
一人目が、私の目の前でわざわざ変身を見せつけているスキに、私はすっかり取り囲まれていた。
ざっと見回しただけでも、十体以上の“人狼モドキ”。
ソラに聞いた与太話の中に、似たような事件があったのを思い出す。
月のない夜に現れる、獣の群れ。
明らかに野犬の類なんかとは違う、鋭い牙と爪を備えた謎の猛獣達。
真っ黒い影のように現れて、獲物を無残に喰い殺して消える恐怖の魔獣。
その犠牲者は、骨さえ残さず喰い散らかされて、その場には大量の血と人間らしきものの肉片だけが残されるという都市伝説。
都市伝説以上の具体的な情報が流れない時点で、それはただのくだらない想像か、もしくは―――【ケースR】だというコトだ。
そして、どうやらその獣共の話は、後者の方だったらしい。
この街には、驚くほど多くの「そういった事例」が同時多発的に発生し続けている。
それにこうして遭う遭わないは、単なる運でしかない。
こっちが遭いたくなかろうが、時が重なればこうして勝手に遭ってしまう。
とはいえ――――
「遭いたくない」というのは、この【モドキ】共を「見逃したい」という意味にはならない。
「戦いたくない」ワケでもない。
むしろ、今の気分はその逆だ。
つまり、獲物を見付けたのは、このケダモノ共なんかじゃなくて―――――私の方だ。
「……知っているか? 私はお前達がキライだ。殺したいほど、虫酸が走る。だから―――こういう時は、素直にあきらめる事にしてる。私達は、お前等と“縁”があるらしいからな。だから、私達は“エンジャ”と呼ばれるんだ」
薄闇の中で、無数の牙と爪とそして光を反射して輝くケモノの眼球が、ぎらぎらと光を放っていた。
弱く、もろく、なぶり甲斐のある獲物を見付けて、獣達はよだれをすする。
そのきつい獣臭に、鼻が曲がりそうだった。
【モドキ】のクセに、まだ性欲が残っているのだろうか?
私を喰い殺しながらボロクズのように犯して、気持ち良く果てる妄想でも視ているのだろうか?
闇の中で、二十を超えるおぞましい眼が、一点に私だけを見つめていた。
普通のニンゲンなら、その濃厚な殺意と敵意だけで、神経を焼かれて動けなくなるような悪寒。
圧力と言っていいくらいの、真っ黒い意志の感触。
それは、捕食者に対する絶望と恐怖。
ただし、それは私が「エサ」だった場合の話だ。
「――こういう時は、あきらめるんだ。私の好きな平穏と、静寂と、ただ気持ちイイ夜闇に触れているだけの時間をな………代わりに、邪魔したヤカラを駆逐する」
雲間から、白い月光が地上に射した。
その光を浴びながら、私の身体が活性化し始める。
「徹底的に、たっぷり時間をかけて、解体する。理解出来るか? 言葉が分かるか? 分からなくてもイイぞ。どうせ、答えは聞く気もない」
笑いがこみ上げてくる。
今夜の私は、どこか凶暴だった。
昼間のセックスが、よっぽど気持ち良かったせいか、まだ少しタガが外れたままみたいだった。
私は、この状況を愉しんでいる。
私のささやかな日常を邪魔した、この無粋な人形共を壊したくてたまらない。
私の異様な気配に当てられて、目の前の人狼が飛びかかってきた。
目にも止まらぬ速度。
人間は、獣と同じ速度で反応する事はできない。
だから、反応なんてしなかった。
代わりにただ「対応」した。
肉のつぶれる音と、骨の砕け散る音。
私の身体を引き裂いたはずの人狼の爪が砕け散っていた。
叩き付けた人狼の腕の方が、へし折れて断裂し、全部の指が逆に折れ曲がっていた。
私は何もしていない。
ただ、少しばかり「硬く」した身体に、ケダモノが勝手に腕を叩き付け、あげくにその腕をへし折っただけ。
砕けた腕の痛みが、その空っぽの脳に届く前に、私はそのブサイクな獣の口をつかんだ。
そして、その口を真っ二つに引き裂いた。
「遊んでやるぞ。ワンコロ共………」
気をつけるのはただ一点。
服を汚さずに帰る事だけだ。
大量に浴びた返り血が、まるで油膜の表面を滑り落ちる水のように地面に流れる。
返り血の一滴も浴びないのは、少々物足りないが仕方ない。
元々、今夜はそういう予定じゃない。
「どうせ元には戻れないんだ。イヌならイヌらしく、戦って死ね」
私は笑って、その集団をあっという間に皆殺しにした。
十三匹目のモドキを八つ裂きにし終えた頃、あの魔鐘の音色が聞こえ始めていることに気付いた。
世界に響く、地獄のような歌声。
どうやら、少し調子に乗りすぎたらしい。
その懐かしい音色に、少しだけ愉悦を感じたけれど、私は大人しく家に帰るコトにした。
今夜は【悪魔】を殺しに街へ出たワケじゃない。
こんな【モドキ】を誰が作ったのかも、その理由も、私には関係なかった。
私達は憎しみで闘争する。
けれど、憎しみは相手が決まって初めて成立するものだ。
知らない、興味もない相手には、憎しみなんて成立しない。
珍しいオモチャを壊し尽くしたことで、もう気は晴れていた。
今なら、あの女の顔を見ても、腹は立たないだろう。