「――なあ、未空。こっちに戻ってくる気はないかい?」
「またその話ですか? しつこいですね。先生も…」
なれなれしく、背中にべたっと張りついて、まるで恋人のように甘ったるい言葉でささやく彼女に、私は心底あきれていた。
主に本部として使用され、機能している母屋から隔離されたような屋敷の外れに、その離れはある。
先代当主―――現当主の実母に当たる、北城殺の生活空間としての小さな建物。
そこに近寄る事ができるのは、ほんの一握りの上級幹部だけだった。
そして、実際にその中に出入りして、そこの主に直接会う事ができるのは、更にその中のほんの少数の者だけだ。
とどのつまり、彼女は偏屈で厄介な人なのだ。
だが、何の因果か、私はその厄介な人に気に入られていた。
「今だって、片手間でこんな大層な仕事が出来るんじゃないか。なら、いっそお前が戻ってきてくれりゃあ、私も安心して、隠居してられるんだけどねぇ」
「こっちには、ケイジや他の若い幹部もいるでしょう? 私の出る幕なんか、ありませんよ」
「出る幕が無いんじゃなくて、出る気が無いんだろ?」
「……分かってるんなら、聞かないでください。はっきり言いましょうか? 戻る気はありません。私は今の仕事が気に入ってますから。無理矢理戻したいんなら、それはそれで構いませんけど―――」
そう言って、いつまでも背中に抱きついている師の顔を見る。
私の視線を見ただけで、彼女は私の言葉の先を理解した。
「みなまで言わなくていいよ。冗談に決まってるだろう? 私はね、お前の事が好きなんだ。買ってるって以上にね。だから、怒らせて嫌われるのはもうゴメンさ」
「…………別に、怒ってなんてませんけど」
「知ってるよ。そういう素直なところも好きさ」
そんな風にささやきながら、ようやく師匠は私から離れた。
何がそんなに気に入っているのか、彼女は私に対しては、いつもこんな調子だった。
実の息子にもしないような甘え方で、そして、他の誰にも言わないような事を、ぽろりと口にしたりする。
まるで、実の娘にでも接しているかのような、気安い態度。
けれど、それは不快じゃなかった。
「……それに、そろそろ引退したらどうなんですか? 実務は全て引き継いだんでしょう?」
「とっくに引退してるよ。これは単に私の趣味みたいなものさ。サガだからね。死ぬまで、この手の仕事からは足なんか洗えないさ」
「趣味とは思えない量ですけど? 今月だけで、いくつ調律したと思ってるんですか? 言っておきますけど、簡単な仕事じゃないんですよ?」
私の今の仕事の半分は、白嶺学園で教師をする事。
そして、残り半分の業務を圧迫しているのが、師匠から一方的におしつけられる、「調律」の仕事だった。
【魔葬】と呼ばれる特殊な兵装。
それを、最適な状態で使用できるように「調律」すること。
それは、ある特殊な才能を持っていないとできない。
私にはたまたま、それがあった。
「適能者は、稀少なんだよ。知ってるだろう? それくらい。それに、仕事に見合った報酬は払ってるつもりだけどね? 教師の安月給なんか、バカらしくなるくらい出してるだろう?」
「お金の問題じゃありません。それに、そっちの口座は通帳を処分したまま、記帳もしてませんから知りません」
「相変わらず、欲のない女だね。まあ、払うものはきっちり払ってるワケだし、これも正式な契約だろう? 依頼して、相手がイエスと言えば、それで契約は成立するんだ」
「相互契約じゃないものは、ただの思いこみでしかありませんよ。何のために、世の中には契約書ってものがあると思ってるんですか?」
「ギブアンドテイクが正常に機能してるものだけが、契約じゃないさ。もっと不条理で不公平で不義理な契約だってある。私やお前が生まれつき抱えこんでるようなモンは、“そういう”契約だろう?」
「……そういうのは、契約って言いません」
「言うんだよ。悪魔との契約なんて、そんなものさ。私らは、生まれつきそういうのと契約してるようなモンだろ? そういう契約ってのは、いつだって一方的で、ロクなもんじゃないってのが相場さ」
年相応の威圧感を感じさせる言葉で、師匠は言った。
見かけは、私の姉と言っても通るかも知れないくらいの人だったが、その実年齢は、私の母親よりも上だ。
そしてどこか、死んだ母に似ている人だった。
言葉遣いや性格ではなく、その刹那的な雰囲気のようなものが、記憶の中の母とたまに重なる。
だから、私はこの人が好きなのかも知れない。
「きついんなら、今日頼んだ分はナシでもいいよ?」
「そんなコト言ってません。急ぐ気はありませんけど、期日までには終わらせておきますよ」
「……ホントに、お前が娘だったら良かったのにねぇ」
「ごめんですよ。私は、実の母親と殺し合いなんかしたくありませんから」
きっぱりそう言うと、師匠は怒りもせずに、くすりと笑った。
北城の一族に、代々伝わる習わし。
特にその血の「強い」宗家は、現在でもそれを続けていた。
基本的に、北城の当主は親からその実子に継承される。
その理由は、利権や金銭の独占なんてくだらないものじゃない。
当主の座は、最強にして最高の証であり、実際にそうである存在がそれを継ぐのだ。
王が世襲であるように。
その重圧と責任と狂気を、血という形で確実に継承してきた彼等にとって、それは当たり前のことだった。
そして―――
「殺し合っても、せいぜい半分だったよ。言葉でも半分、一晩かけて愛し合っても半分、殺し合っても半分。いつだって、残り半分が欠けたままだ。想いも願いも伝わりゃしない。人間ってヤツは、どこまでも半端だからね……」
北城において、当主がその座を後継に譲る条件とは、親子同士の殺し合いによる「相続」。
実子が生き残れば、それが新たな後継となり、そうでなければ親が当主を続ける。
北城殺がこうして今も生き残ってるのは、本来、異例中の異例だった。
それは、彼女自身の類い希なる戦闘能力と、彼女の息子の甘さゆえの結末。
現当主は、彼女を殺せなかった。
もしも、私がその立場だったら、どうしたろうか?
この人にあっさり殺されただろうか? それとも――――
無慈悲に、この愛しい人を殺したろうか?
「じゃあ、よろしく頼んだよ。未空」
「………はい。先生も、あまり無茶なコトはしないでくださいね。もう、お歳なんですから」
「口の減らない女だね。ま、気が向いたらそうするよ」
予想以上の新しい仕事を押しつけられて、私は離れを後にした。