———六月二十二日 白嶺学園———
(………ダマされた)
上倉桐人のクラスの前で、私はため息を吐いた。
あの男の口車に乗せられて、部活をズル休みまでしたというのに、まるでピエロだ。
上倉は、今日登校していなかった。
あれしきの責め苦で、ガタがくるような身体じゃないはずだが、とにかくこれで何もかもパーだ。
「七祇」
「ふぇ?」
部活に戻ろうと思った時、背後から声をかけられた。
その声と、反射的に振り返って目にしたその姿に、私は思わずあっけに取られる。
「どうかしたの? ぼーっと突っ立って」
くーちゃんが———時雨ソラが、そこにいた。
私が、上倉桐人を助けてやった理由。そして、口車に乗った理由の人物が、そこに立っていた。
頭の中が軽くパニックになって、思わず声がうわずりそうになる。
「う、ううん。へーきへーき———ッ!?」
ひやっと冷たい指の感触。くーちゃんの手が、私のおでこに触れていた。
いつもの少し退屈そうな顔のまま、私の体温を確認したくーちゃんは、じっと私の顔を見つめる。
「熱はないな。夏バテ? にしちゃ、あと一月は早い気がするけど」
そんなとぼけた事を言うくーちゃん。
何と答えたらいいのか分からず、ぽーっとしてると、その指から不意に、赤い滴がにじみ出した。
「時雨君、指…血が出てるよ?」
「ああ。さっき、慎之輔とバカやって、そん時に切ったんだ。そんなに深く切れてないと思ったんだけど」
紅い、血————
くーちゃんの血。
虫にでも刺されたみたいな顔で、自分の傷に全く興味なさそうにしてる彼の手を、私はぎゅっと握りしめて———
思わず、その指先を口に含んでいた。
「七祇?」
「…………」
口の中に、くーちゃんの血の味が広がる。
おずおずと大事に舌を当てて、傷口を殺菌するようになめる。
誰かに見られでもしたら、面倒な事になるというのに。
私は自分を抑えきれなかった。
ここ最近、スキンシップが足りてなかったせいか、私は半ば夢中になってくーちゃんの指をしゃぶる。
「…なんか、犬みたいだな」
おかしそうに言うくーちゃんの言葉に、はっと我に返って、あわてて口を離した。
「…………ご、ごめんなさい。消毒しないとって思って……………はしたなかった?」
そっと見上げると、くーちゃんはいつもの顔のままだった。
「いや。驚いたけど、別に構わないし」
「ごめんね……あの、バンソーコー持ってるから、今——」
「いらない。なんか、血ぃ止まったし。それに、さっきのはさ、犬みたいに可愛く見えるって意味だから」
「え?」
「七祇って、たまに犬みたいで可愛いよなって話」
「………それ、ホメ言葉になってないよ」
「そっか。ゴメン」
悪びれてない感じで、笑う彼の顔を、私はまともに見れなかった。
その前の台詞が、まだ胸の中で繰り返し鳴り響いている感じ。
「カワイイ」——そう、確かに言った。
それが単なる形容詞でしかなくても、うれしかった。
「そういえば、なんで時雨君、ここにいるの?」
「桐人にさ、頼まれたんだ。机の中にノート入ってるから、取ってきて欲しいって。アイツ今日休んでるみたいで、帰りにそれを持ってきてくれってさ」
「…ふーん。そうなんだ。珍しいね、上倉君が休みなんて」
「そうだな。でも、アイツ結構病弱なトコあんじゃん。何の持病だか知んないけど、前に一年くらい休学してたろ?」
「そうだね」
適当に話を合わせながら、私は現状を把握した。
どうやら、上倉は本当に段取りを付けてくれたらしい。
「あの、今日———部活ないんだけど……いっしょに帰らない?」
私は思いきって、アプローチをかけてみた。
「別にイイけど。じゃ、慎之輔と三人でどっか寄ってく?」
「………出来れば、二人がイイんだけど…その………」
だが、そこまでが限界だった。
我ながら情けない。
いつもこうだ。
「ああ、そういう事。またどっかでヤケ食いしてきたいってんだろ? 分かった分かった」
けれど、くーちゃんはそんな風に誤解すると、おかしそうに笑った。
私は、その誤解を利用する事にした。
「………大きな声で言わないでよ。恥ずかしいなぁ」
「俺も、昼は外で食おうと思ってたんだ。天龍でイイ? それとも、他の店にする?」
「時雨君の好きなトコでイイよ」