―――六月二十二日 白嶺学園―――
「……………」
陽射しがもう初夏のものに変わっているのに、気付いたのは「外」に出てからだった。
この服はあまり着心地が良くない。スースーする。
サイズはぴったりだったけど、あのコの匂いをかいでると、自分がどっちだか忘れそうになる。
「七祇? こんなトコで何してんの?」
「ふぇ…?」
振り返ると、知っている顔が私を見ていた。
あのコと彼のお友達。確か名前は―――――
「……瀬場…君、こんにちは」
「こんにちは~♪ って、違うだろ。そうじゃなくってさ……こんなトコで何してんのかって話じゃん」
瀬場慎之輔。あのコの知り合い。
彼の―――くーちゃんのお友達。とても、仲の良いトモダチ。
私は自分の変装がバレてないのを確認しながら、瀬場君の表情をうかがった。
どうやら、私がきちんと「七祇紅音」に見えているみたいだ。
「…えーっと、その………少し、具合悪くて…」
「そーなの? でも、なら保健室でも行けばイイんじゃね? ここひなただし、日射病とかになっちまうぞ?」
白嶺学園の校舎をながめるには、ここが一番良い場所だった。
校舎からは死角になっていて、生徒もほとんど来ない。
――はずだったのだけれど、何故か、瀬場君と会ってしまった。
次からは、木の上とかにでも隠れる事にしよう。
「…あんまり、好きじゃないの。保健室の匂い」
「ふーん。そっか。まー、分かるけど。オレもあの薬品臭いのは、少しニガテだし」
「……瀬場君は、何してるの? 今、授業中でしょ?」
「そーなんだけど、ソラがさ、まーたどっかでサボってやがってるんで、オレもそれを見習って、ちょっと買い食い―――じゃなくて、散歩にさ」
瀬場君は、そう言ってにっこり笑った。
この人の笑顔はキライじゃなかった。
いつも楽しそうで、うらやましく思える。だから、彼もこの人が気に入ってるのかも知れない。
「…時雨君、探してるの?」
「いや、アイツのサボりはいつもの事だし。それに放っとけば、その内戻ってくるだろうから」
「そうなんだ……いつもの事なんだ…」
「そういや、今日は上倉休みなの? アイツのクラスに行ったら、珍しくいなかったんだけどさ」
「………さあ? 知らない」
「そっか。いや、別にどうでもイイんだけどさ。知らないなら知らないで。そっか……」
「…………」
上倉桐人。本家が飼っている「狗」だ。
でも、興味はなかった。
昨夜、本家で何かあったらしいけれど、どうでもイイ。
私には関係無い。
あんな「なり損ない」なんて………
じゃ、オレもう行くわ。コレ、やるよ。お見舞い代わりにさ」
そう言って、瀬場君はポケットの中から取りだした小さな包みを私にくれた。
「…ありがと。瀬場君」
「んじゃ、お大事にな。気分悪くなったら、ニガテでもちゃんと保健室行った方がイイぞ」
「うん……」
瀬場君は手を振りながら、どこかへ行った。
彼が見えなくなってから、私は近くにあった手頃な高さの木に駆け上った。
そして、丈夫そうな枝に腰を下ろすと、静かな校舎をながめながら、もらったチョコレートを頬張った。
―――モラトリアムは、残酷な罠だ。
「猶予される」という事は、それを自覚していなければ、ただの罠と変わらない。
それを知らぬまま、その許されている状態が「当然」だなんて思ってしまうと、もう救われない。
気付いた時には、そのモラトリアムなしでは生きられないような、どうしようもない惰弱に、身も心も染まりきる。
そして、その時になって知るのだ。
この世界は、決してそんな「猶予の時間」なんかで出来ているのではない事実を。
知って、絶望するのだ。
世界に、人に、自分を取り巻いていたものの全てに。
それが、いわゆる「大人への通過儀礼」。
なんとも悪趣味で、そして笑えない。
希望を教えてやる為に、まず絶望を味わわせなければならないという皮肉。
でも、それがニンゲンというものだ…………