―――七月七日 枢井碕―――
私が「クルイザキ」と呼ばれるその街に着いたのは、二日ほど前の事だった。
この街にいる協力者に会って、必要な情報を入手するのが目的だった。
実のところ、私は今回の任務についてほとんど何も知らされていない。
私が向かう街――「鶴伎町」と呼ばれるその地が、どんな場所なのか。
そこに存在する敵対勢力――「猟人」達の情報にしても、ほとんど知らなかった。
それはいつもの事だったけれど、今回は少々事情が違うらしい。
これまで、あの地に向かった同胞で、生きて帰った者は一人もいなかった。
ただの一人も帰ってこなかったのだ。
それを議会はとても気にかけていたけれど、それがどれほど異常な事なのか、私には良く分からない。
もうずっと――――気が遠くなるくらいの時間を、あの朽ちかけた尖塔の中で過ごしていた私には、その現実がどれほど衝撃的なのか理解出来なかった。
なぜならば、【悪魔】にだって死はあるから。
私達は死ぬのだ。
「闘争」に敗れれば、あっけなく散り果てる。
その点は、人間達と何も変わらない。
つまり、帰って来なかった者達はみな死んだのだ。
戦いに敗れて。
「粟生野鳴様でございますか?」
呼ばれて振り返ると、そこにはいつの間にか、黒い服を着た男が立っていた。
城にいた侍従に良く似た格好の男は、私にうやうやしく頭を下げると、服従の笑みをはりつけた顔を上げた。
「……はい。そうです」
「主人がお待ちです。さあ、お車の方へどうぞ」
その後ろに停めてある車の方を指して、男はまた頭をたれた。
私は車の中に乗りこむと、車内に残った匂いに気付いた。
いつかかいだ記憶のある匂い。
私の知ってるその匂いは、おそらくこの車の持ち主のものだった。
車はゆっくりと走り出す。
流れる車窓の景色を見やりながら、私は古い記憶を探った。
百年前までさかのぼって、けれどその匂いの記憶は見つからなかった。
そうこうしている内に、車は街からどんどん離れ、曲がりくねった林道をいくつか抜けると、その先にある開けた敷地へ入りこむ。
街から離れたその場所には、どこか時代にそぐわない古い建築様式の洋館が建っていた。
この国の景観とは合わないらしく、どこか不自然な―――「不気味」と表現した方が合う外観だった。
「到着いたしました」
建物の前で止まった車から降りると、私はもう一度その館を見上げた。
どこか、寸法がおかしい。
まるで異国の大聖堂のような大きさのその屋敷は、異様に巨大でそして、荘厳を越えて威圧的ですらあった。
こんな風な建築物を、私は良く知っている。
【悪魔】の住処は、みなこんな感じだ。
私達の美意識―――同胞達が気に入っているそれに照らし合わせると、これは「美しい」に値する感覚だった。
でも、私には良く分からない。
「こちらでございます。どうぞ」
侍従に付き従って、私はその館の中へと入った。
そして―――
「いらっしゃい。えーと―――粟生野鳴、だったかしら? 今回の名前は」
「…はい。そうです」
玄関で私を出迎えたのは、漆黒の髪をした美しい同胞―――【悪魔】だった。
その顔を見て、ようやく思い出した。
ずっと昔にかいだ事のある匂い。
その独特の香水と、そして煙草の匂い。
彼女は私と同じ「蒼」の一族で、そして、私の知る限り、姉と同じくらいに強く気高い悪魔だった。
「……そう。じゃあ、今度は貴女があの地へ向かうのね」
「…はい。四家議会の命を受けて、今から向かうつもりです。その前に、情報が欲しいのですが」
「分かっているわ。私はそのために、こんな場所にいるのだものね。でも―――少しくらい、寄り道する時間はあるでしょ? 貴女のために晩餐を用意してるの、もちろん、受けてくれるわよね?」
「………あまり、長居は出来ませんけど、少しなら」
「そう。良かった。じゃあ、まずは旅の疲れを落としなさい。部屋もお風呂も用意してあるから」
「…………」
美しいその顔は、ひどくそそる微笑を浮かべていたけれど、その目はひどく冷たかった。
悪魔の目は、いつもそうだ。
まるで嘆きの川のような目で、獲物を観察するように、私を見下ろしていた。
同じ悪魔なのに、私にはそれは良く分からない感覚だった。