「お風呂、どうだったかしら?」
「はい。良いお湯でした……」
彼女の用意したドレスに着替えさせられて、私は少し違和感を覚えていた。
何で、こんな事をしているんだろう?
享楽も、怠惰も、悪魔にとっては当たり前の事だ。
けれど、私は任務のためにここに来た。
だからなのだろうか?
この違和感は。
「食事まで、少しお話しない?」
「…………」
私のための晩餐を開くと言って、彼女は私を食堂に呼んだ。
そこは食堂というよりは、聖堂とでも呼ぶべき場所だった。
悪魔が祈るべき「神」などいない。
それでも、何かを崇拝したり、何かに執着する事はある。
彼女が固執しているのが何なのか、私は知らない。
でもきっと、この場所はその「何か」に祈りを捧げるために作られた場所だった。
部屋の奥に作られた大きな祭壇には、墓標のようなモニュメントが建てられていて、彼女はその祭壇に向き合う場所に座っている。
私はその反対側に用意された席に着くと、彼女との対話を選ぶ事にした。
「それにしても、四家議会がまさか―――貴女をよこすなんてね。話を聞いた時は、思わず耳を疑ったわ」
「……あの街について、話を聞きたいのですが」
「まあ、待ちなさいな。メインディッシュは最後って決まっているものよ。今は貴女が私に付き合う時間でしょ?」
「……………」
仕方なく、私は彼女に付き合う事にした。
情報を手に入れるための代価だと思えば、それほど理不尽な要求でもない。
「こっちに出てくるのは、何百年ぶり?」
「……さあ。分かりません。時を数える習慣はありませんでしたので」
「そう。それじゃ、驚いたでしょ? 今の人間達は、どこにいても話せるのよ。こういう機械を使ってね」
彼女は小さな赤い箱を私に見せると、それを二つに割り開いた。
まるで小さな板にしか見えないそれが、この時代の電話なのだと言う。
「……電波を使って、音声と映像しか伝えられないのでは、あまり意味がないのでは?」
「そうでもないわ。人間のコミュニケーションは、基本的に言葉と表情だけだもの。肉体接触もあるけど、そっちはむしろ生殖と快楽のためのものだしね。文字と言葉を送信出来るっていうのは、大きな進歩なのよ」
「……進歩が必ずしも進化であるとは限りません。ただ進むだけの進歩の先にあるものは、往々にして破滅です」
「そうね。でも、どうでもイイわ。人間が滅びようがどうなろうが、私達には関係無いしね。でも、観察対象としてはとても面白いのよ。人間って」
「…アナタは、人間が好きなのですか?」
私の質問に、彼女はあっけに取られたような顔をしてから、笑い出した。
「好き? 人間を? 私が? あははははっ…………冗談もほどほどにして欲しいわね。ありえないでしょ? そんな事」
ひとしきり笑うと、彼女は蔑む瞳で私を見た。
「―――どこの世界に、人間なんかを好きだって思う悪魔がいるの? 彼等はしょせん、単なる虫けらにすぎないわ。どんなに愛玩しても、虫は虫。小生意気な“エンジャ”だって、同じでしょ。ただ、彼等は愛玩でなく――憎悪に値する虫。それだけよ」
「……そうですか」
「まあ、貴女は違うのかも知れないけどね………だって、貴女は“欠陥人形”だから」
「……………」
それは侮辱ではなく、一族が私に与えた正式な呼称だった。
悪魔でありながら、悪魔らしくない存在。
悪魔として必要な要素の欠落した存在。つまり、「欠陥品」。
だから、私は「欠陥人形」だった。
悪魔の中の異端。
それゆえ、私はうとまれ、蔑まれ、そして――――怖れられていた。
「……そんな貴女が、選ばれたのよね。私達“蒼”の代表に。一族の代行者として」
「何か、問題があるのでしょうか?」
「ないわ。議会が正式に指名したのなら、その理由があるのでしょうしね。私のような大した地位もない、一介の悪魔に口出しできるような事じゃないわ」
「…なら、なぜその話を?」
「したくなったから。それじゃいけない?」
「……………」
彼女は、どこかあからさまだった。
まるで両手を挙げながら、挑発するように。
私は、それをどう解釈するべきなのか迷っていた。
それが「闘争」なのか、判断しかねていた。
その迷いを見透かして、彼女が不意に嗤った。
「さて―――それじゃあ、そろそろメインディッシュにしましょうか。あまり焦らされるのは、好きじゃないみたいだしね」
違和感が、一層強くなった。
「…貴女は、何がしたいのですか?」
「何がしたいと思う? 何をするために、ここに招いたと思う?」
その眼は、最初から冷たいままだった。
初めて会った時からずっと、強い射すような感情を浮かべたままだった。
私はその感情を知っている。
「………私には、貴女と“闘争”する理由がありません」
「あらあら。そんな事、一言も言ってないでしょ? それとも―――闘争を申し込んでもない相手を、いきなり殺すのかしら? それが欠陥人形の流儀?」
「……………」
どうやら、この分では情報を得られそうにもない。
私は、この館から去る事にした。
「…それでは、おいとまします。これ以上話しても、何も教えてはくれないのでしょう?」
「………そうね。そろそろいいかしら? ほら――――私の“暴虐”が、もうアンタを捕まえたしねぇ」
その瞬間、腹部に熱い衝撃が走った。
視線を下ろすと、私の腕よりも太い鉄杭が、お腹に突き刺さっている。
そこからあふれた大量の血が、真っ白なドレスを真紅に染めてゆく。
「気付かなかったでしょ? 気付かないようにやったもの。仮にも“蒼の巫女”だしね、念には念を入れて、用意周到にやったのよ。すごい苦労したんだから。アンタにバレないように、アンタの認識のギリギリ外から、ほんの少しずつ“侵蝕”していったの。気付かなかったでしょ? 全然」
その美しい顔に歪んだ笑みをはりつけて、その悪魔は立ち上がる。
そして、私にめがけて無数の鉄杭を撃ち放った。
とんだ晩餐だった。
そこに用意されていたのは、美しい食器でも豪華な料理でもなく、私を殺すための罠と武器と殺意だったのだ………
―――『世界は無限に分岐する』。いつかどこかで見付けた言葉……
またたきの一つ。吐息の一つ。鼓動のたった一つが産み出す小さな「誤差」が、次の瞬間を全く別の「未来」に変えてしまう。
確か、そんな感じの内容だったと思う。
未来は常に、数え切れない「可能性」に分かれているものなのだ―――と、その言葉の創造主は締めくくっていた。
けれど、それは決して「無限の分岐」なんかじゃない。
それはただの「類似」の一つに過ぎないのだ。
本当の意味で、「無限の分岐」などというものはありえない。なぜならば、「可能性」の数は決まっているから。
ただその事を、人間が知らないだけの話だ。
「可能性」の数は、最初から決まっている。
「情報」は決して無限ではなく、有限なのだ。だから、そこから生まれる「可能性」も、おのずとその数が決まってしまう。
だから、私は「運命」という言葉の意味が理解できない。
未来はあくまでただの確率論だ。
その確率の結果に、どんな理由をつけてもそれはただの後付けの言いわけにすぎない。
つまり、「運命」というのは、そういうただの言葉遊びにすぎないのだ………